立教大学社会デザイン研究所研究員
立教大学院21世紀社会デザイン研究科兼任講師
星野 哲様

「終活」はご存知ですよね。自分でお墓や葬儀の予約をしたり、遺言書作成やエンディングノートを書いたり。すっかり当たり前の言葉として定着した終活ですが、私は「終活を意識したら集活を」と勧めています。

集活は造語です。集まって話をしよう、縁を結びましょう。そんな意味を込めています。ダジャレのような造語までしたのは、多くの終活はその点が足りないと感じるからです。

なぜ終活をするのか尋ねると、ほとんどの人は「家族や周りの人に迷惑をかけたくないから」と答えます。確かに、遺言がないばかりに財産を巡って「争族」が起きたり、亡くなったことを誰に連絡すればよいかわからず苦労したりといったことを避けるには、準備が不可欠です。

でも、どんなに準備しようとも人は死に際し、他者のお世話にならないわけにはいきません。火葬場に歩いていくわけにはいきませんし、お墓から出てきて事務手続きすることもできません。必ず誰かの手を煩わせなければならないのです。ある程度の準備は当然必要ですが、むしろ「あとはよろしく」と委ねることができる関係性、手間や世話を迷惑とは感じない関係性を結ぶことこそが大事ではないかと思うのです。隣家の子どものピアノを「うるさい!」と思うか「上達したなあ」と感じるかは日頃の関係性によるのと同様に、同じ手間でも迷惑と感じるかどうかは関係性に依ります。だから、集活なのです。

迷惑を絶対かけないようにと思えば、自分でなにもかも抱え込み、様々な商業的サービスを利用することでかなり対処できるでしょう。言葉は悪いですが、お金で解決です。例えば葬儀の式次第をすべて決めてお金も支払っておけば、家族は確かに楽でしょう。でも、家族にも「思い」があるはずです。最後の親孝行として葬儀を取り仕切ろうと思っていた子どもにすれば、そこまで頼りないと思われていたのかと感じてしまうかもしれません。そうなると関係性は「閉じる」方向に向かいます。そうではなく、関係性を「開く」ことで、周りの人たちに人生の最後を託していける方がいいと思うのです。

それは、自分では意思表示できなくなった際の医療やケアの方針という、終活で実は最も切実なこと――なにせ、ほかの終活分野は自分が死んでからのことですが、医療・ケアは生きている間に本人が直接、体験するのですから――に関して特にいえることです。これこそ最終的に家族ら周りの人たちに託すしかありません。意思表示が難しくなることに備えた取り組みを、国も「人生会議」として普及を図ろうとしています。

人生会議とは、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の愛称として2018年に国が定めたものです。「もしものときのために、あなたが望む医療やケアについて前もって考え、家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有する取り組みのこと」と厚生労働省のHPは説明しています。一部の医療者が「ACPを取る」といった不思議な物言いで、あたかも患者の意思を聴取してDNAR(心肺蘇生を行わないこと)などの書類を作成することが目的であるかのようにふるまっていますが、大きな勘違いです。人生会議の肝は「繰り返し話し合」う点であり、まさに集活そのものです。

面倒な話し合いなどしなくても、「心肺停止時の蘇生はしない」「胃ろうはしない」などと文章で指示する「リビングウイル」やエンディングノートなどの「事前指示書」を作成すれば十分なのでは、と思うかもしれません。しかし、事前指示書にはいくつかの課題が指摘されてきました。例えば、いざというときどこにあるかわからないとか、「延命治療はいらない」というように指示内容が漠然としていて現場でどう判断したらよいかわからなかったり、時には指示書内で指示内容が矛盾したりしてどうすればよいか悩むといったことです。特に悩ましいのが、多くの場合、人の意思は日々変わる点です。事前指示書を作成した時点の意思と、「いま現在」の意思は同じなのかという問題です。

例えば、ある人が事前指示書に「延命治療はしないで。たとえ肺炎になっても抗生剤は使わないで」と書いたとしましょう。その後、認知症になり意思表示が難しくなりましたが、とても穏やかな日々を過しています。そこで実際に肺炎になったとします。その場合、たとえ抗生剤を使えば簡単に治る肺炎だったとしても、指示書に従うべきでしょうか? 認知症になる前の意思は本当にいま現在もそのままなのでしょうか? もしも指示書しか判断材料がないとしたら、家族や医師ら周りの人たちは悩むのではないでしょうか。

人生会議の考え方は、繰り返し話し合うことで本人の価値観、死生観などを周りの人が理解し共有することに重点を置きます。それによって、いざというときに「本人ならきっとこう考えるだろう」「本人の人生観に沿っている」と周りの人たちがある程度の確信を伴って判断できれば、先ほどの事例なら抗生剤を使ったとしても納得できる決断と思えるのではないでしょうか(抗生剤を使うことが「正解」だといっているわけではありません。念のため)。たとえ事前指示書の内容が曖昧でも、判断がしやすくなるはずです。

終活は最終的に他者にお世話にならないわけにはいかないと書きましたが、事前指示書も全く同じです。書くことは自分でできても、実際にどうするかは他者に委ねるしかありません。話し合い、関係性をつむぐことこそが肝なのです。

「医療提供を目的とした介護保険施設における看取りの在り方等に関する調査研究報告書」(2020年、みずほ情報総研)によると、看取りの進め方について本人・家族らと職員が話し合っている人の方が、「本人から医療・ケアに対して感謝の言葉を言われた」「本人の笑顔がみられることがあった」「本人の表情が概ね穏やかであった」の割合が、話し合いがなかった人よりも高いという結果でした。本人の納得度が高ければ周囲との関係が良好になるからではないでしょうか。

とはいえ、急性期で入院した場合などは別として、「本日午後5時からリビングで人生会議。家族は集まって!」などというのはあまり現実的ではないですよね。日常の会話の中で自然にというのが理想でしょう。ですが、まだまだ「縁起でもない」と自身の死を話題にすることを忌避する人が大勢だと思います。

データをみると(厚生労働省「人生の最終段階における医療に関する意識調査報告書」2018年度)、人生の最終段階の医療について医療・介護関係者や家族らと話し合っている割合は「詳しく話し合っている」と「一応話し合っている」を合わせても一般国民の場合、4割に満たないのが現状です。「詳しく」は2.7%です。どういうレベルが「詳しく」や「一応」なのかは人それぞれでしょうが、おそらくは「俺は延命治療なんてしなくていいからな」「無駄なことはしないでほしい」といったレベルの「話し合い」が「一応」として多いのではないかと想像します。

医療・介護関係者はどうでしょう。医師はさすがに「詳しく話し合っている」と「一応話し合っている」を合わせると6割を超え、看護師と介護職も5割を超えています。それでもやはり「詳しく」となると医師でも9.2%、看護師と介護職は約6%です。決して高い数値ではありません。一方、「話し合ったことがない」理由としては「話し合うきっかけがなかったから」が一番に挙げられています。やはり「きっかけ」が大事なようです。

日常の中で、死を前提にした話し合いをするきっかけとはどんな場面でしょうか。病を患ったり、けがをしたりした時が一つには考えられるでしょう。あるいは還暦や喜寿などの節目、テレビで安楽死などをテーマにした番組をみた時、友人が亡くなった時…。でも、元気な時でないと気持ちが負けてしまいそうです。となると「自分一人でエンディングノートを書いたほうが楽だ」となりかねません。発想の転換が必要そうです。

長年、在宅医療に携わり、ACPの愛称選定委員会メンバーでもあった医師の紅谷浩之さんは「人生会議とは死について話し合うのではなく、どう生きるかを話し合うこと」と主張しています。「決めなくていい。話し合う過程が大切」だとも。好きなことや今しておきたいことなど、夢を語るように「今とこれから」を話し合うこと。たくさん話すこと。それが人生会議なのだと考えれば、少し気が楽です。日常会話そのものともいえそうですから。

とはいえ、毎日話し合うような豊かな関係性があるならいざ知らず、そうでないならやはりどこかで「死生観」を意識した話をする必要はありそうです。もしも話をする場が自ずと死生観に関わる話をしやすければ、「きっかけ」として機能する可能性が高まると思いませんか? 実は私たちはそんな場を知っています。それは、お寺です。

お寺は全国にコンビニよりも多い約7万5千もあり、利用しやすい場です。一部の観光寺院を除いてお寺は基本、葬儀に関わり、墓を維持し、先祖の霊を祀ることで成り立っています。つまり、死に関わる場です。お寺で仏様を前にするとなんとなく落ち着くという方も多いのではないでしょうか。それは宗教性や広い空間、「外」とは異なるように感じるゆったりとした時間の流れなどが心身に作用するからでしょう。

「何を馬鹿な。葬儀で意味不明のお経を読んで金だけ取って、説法するでも遺族をいたわるでもなく帰る坊主が!?」と思う方は少なくないと思います。確かにこうした僧侶がいるのも事実ですが、実はいまお坊さん、そしてお寺も変わってきています。というのも、人口減少や地方の過疎化、イエ制度がなくなって経済基盤だった檀家制度が機能しなくなりつつあるいま、運営困難なお寺が増えているからです。時代に合った形で存続するためにも、社会課題に向き合って人々の信頼を得るお坊さんが増えているのです。その一つが、死後にだけ関わるのではなく、人生の最終段階から人々を支える活動です。

例えば、病院や介護施設などで死を前にした人に寄り添ってお話を聴く。家族の介護をしている人などケアラーがお互いの経験などを分かち合う「介護者カフェ」をお寺で開く。障がいあるお子さんの親が相談を寄せる場として「お寺と教会の親なきあと相談室」を開催する。グループホームや介護施設を運営するお寺もあります。最近は「看仏連携」と呼ばれる動きが象徴的です。文字通り、看護と仏教が連携しようというのです。

やはり死は怖い、不安だという人が多いでしょう。「死んだらどうなる」「生きてきた意味は何か」など「スピリチュアル」な不安・悩みに直面します。WHO(世界保健機関)は身体の痛みだけでなく、スピリチュアルな苦痛を和らげることも緩和ケアに含まれると定義します。でも、医師や看護師は身体の痛みは取り除けても、スピリチュアルな面への対応が難しい場合があります。そうした教育もまだ十分とはいえません。さらに、看護師自身も患者の死に戸惑い、悩むことがあります。「宗教者ならスピリチュアル面への対処ができるはず」との期待で始まったのが看仏連携です。

具体的な動きとして、お寺が設立に関わった訪問看護ステーションが2021年5月、大阪市に誕生しました。通常の訪問看護事業と違うのは、利用者とその家族のスピリチュアルな悩みに向き合う態勢がある点です。利用者側が望めば、スピリチュアルケアの訓練を受けた臨床宗教師といった資格を持つ宗教者を、自宅や介護施設に無料で派遣します。ほかにも、大阪府と鹿児島県では看護協会が「まちの保健室」をお寺で開いていますし、お坊さんが看護師向けにスピリチュアル関連の講習を行っています。

紹介したのはほんの一部にすぎません。様々な活動を通して地域に「開かれた」お寺はあるのです。実際に「縁起でもない話をしよう会」「デス・カフェ」などの名称で、意識的に死について語り合う場を開いているお寺もあります。そこまでしつらえた場でなくても、法事や墓詣りの折に亡き人を偲びながら近しい人たちと話をする。その際、ほんの少しだけ意識して自身や身内の行く末のことを話しあってもいいのではないでしょうか。場のチカラが背中を押してくれるはずです。

もちろん、お寺だけが人生会議に役立つなどといっているのではありません。千葉県松戸市市医師会主催で行われた「まちっこプロジェクト」のように、子どもたちに認知症や命に関わる教育をした後、「宿題」として親に勉強した内容を伝えてもらうことで、家で自然と人生会議を促すといった工夫もあるでしょう。介護・看護の現場で何気ない会話を記録しておくこともまた、利用者の価値観や思いを共有することにつながるはずです。

最期を託すことは信頼関係を前提しているだけに、お互いの関係性を豊かにする可能性があると考えます。ぜひ集活してほしいと思います。その際、一つの手段として近くのお寺が「役に立つ」かどうか、ちょっと訪ねてお坊さんと話をしてはいかがでしょう。医者も同じですが、人間関係ですから合う・合わないがあります。ダメだと思えばサヨナラすればいいのです。宗教者と良い関係性が結べれば、死への大きな支えになるかもしれません。